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てい・ぽっと

創作。 新作は年2ペースです。

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昼の月影

高1の時に書いたのをしっかりリライトしたもの
字数が3000くらい増えたけれど、場面飛んだ感じを低減させたいがために本筋ではない文章を増やした結果です。プロローグと1日目で6000書いてたの馬鹿だよ
9600字と少し。




プロローグ あるいは邂逅

 自室のドアを開けるとそこには、非日常が寛いでいた。

 台風が来ているわけでもないというのに、ひどく雨風の強い一日。夏らしい晴れの予報を信じて折り畳み式の日傘しか持ち出していなかったものだから、ほとんど濡れ鼠になってしまった。いつもと違うのはそれくらい。日常の中の外れ値を引きながら、それでもまだ日常でいられる範囲内の(だって、年に一度くらいはあるでしょう?)生活をしていただけ。
 だから、学生の多いワンルームマンションの、一人暮らしの私の部屋なんかに、見ず知らずの若い男が居るなんて、あってはならないのだ。ましてや昨日整えたばかりのソファにぐでっと寝そべっているなんて、その体勢で今日の朝刊を捲っているなんて、そんなこと、決して、あっていいはずがないのだ。
「……誰?」
 神様だって、今この時の口のきき方くらい、きっと許してくれるだろう。

 男は目を二、三度またたかせて、それから大袈裟に驚愕の声を上げた。
「うおおおお!? 誰ですかアンタ!? なんで見えてンだよ!?!?」
「え。家主だけど」
「そう! そりゃそうだよな! 人ンちだもんな!!」
 私以上に驚いた挙げ句、勝手に一人で納得しないでほしい。
「何だか知らないけど出てってよ。今なら警察呼ばないであげるから。というか私、戸締まり忘れてたかしら」
「雨宿りだよ、雨宿り。戸締まりはバッチシだったけど、俺みたいのにかかればホレこの通り」
 よっこいしょ、となんとも親父臭い(見た感じ同年代なのにね)掛け声と共に、男は畳んだ新聞から腕を伸ばした。伸ばしたというのはこう、筒状の部分に腕を通したとかそんなのじゃなくて――表面から裏面へと、腕を貫通させた、のである。
「……マジック?」
「違ェよ、種も仕掛けもございません。ついでにこーやって」
 男は新聞をペラペラと広げてみせた。適当に持つせいでバラバラになった薄っぺらい紙たちは、重力に従って床に散らばろうとし、
「こう」
 既(すんで)の所で静止した。
「幽霊だよ、ユーレイ。できたてホヤホヤのさ」
 ……頭が痛いのはきっと低気圧のせい。できたてホヤホヤの幽霊って何? とか一瞬過っちゃったけれど、何にも関係ない。関係ないったら。
「私、幽霊なんて見えたことないわよ」
「んじゃあ、コレはどう説明すんだよ」
 胸をトントンと叩いたその煤けた肌は、たしかに現実性が薄いように見える。けれどそれは、コンタクトがずれているせい。きっと、いや絶対にそうだ。
「……コンタクト外してくる」
「おー、行ってら」
 コンタクトを外し、洗面台に向かって深呼吸をひとつ。大丈夫、こっちにはつい最近作り直した眼鏡が付いているのだから。部屋に戻ればマジシャンの不審者がくっきりはっきり見えるはず。ポケットに突っ込んだスマホを固く握りしめて、装備は万全――……。

「透けてる」
 透けていた。
 ばらけた新聞でジャグリングなんかしている。取り落としたスマホが接地する直前でジャグリングの仲間に入っていく。
「な?」
 そして腹も立たないくらい見事なドヤ顔。
「霊感はラジオのチャンネルみたいなもん、って知り合いの呪術師が言ってたぜ」
 幽霊(仮)はつまみをひねるようなジェスチャーをした。呪術師なんてフィクションでしか聞いたことのない言葉を出されて、薄まった現実性が一周回って戻ってくる。
「……反論のしようがない証拠、出しなさいよ」
「え? そーだなぁ」
 幽霊(たぶん)は空中を泳ぐようにしてこっちに来た。そうして私より一回りも二回りも大きい右手を差し出してくる。
「握手。さすがに身をもって体験すりゃあわかるだろ?」
「…………握手」
「日本ってハグ文化圏だっけ?」
「お辞儀よ」
「あーそっか。でもお辞儀じゃ触れないからなぁ……。どうせ物理的接触はないんだから、握手で手ェ打たね?」
「……仕方ないわね」
 諦念とともに差し出した右手は、確かに幽霊なるものの右手に掴まれたように見えた。しかし、そこにあったのは冷たい空気の塊のような感覚だった。それを握りこもうとすれば、指は然したる抵抗もなく沈んでゆく。
「それ、気持ち悪ィからやめてくんね?」
「あ、ごめん。面白くてつい」
 極めて居心地の悪そうな声が降ってきたものだから、私はグーとパーを反復するのをやめた。
 しかし、さすがにこれは、観念しなくてはならないようだ。なんだか妙にほっとしたというか、ただひたすらに疲れたというか。
「ヒトのこと何だと思ってんだよ」
「幽霊じゃない」
「んじゃ、元ヒト。まぁ握手もしたし、雨がやむまでヨロシクってことで」
「ちょっと、それは知らないって――聞いてないし」
 事実上の幽霊は本棚から適当な小説を引っ張り出して、鼻歌なんて歌いながら読み耽っている。しばらく動かなさそうだから、今のうちに雨で冷えた体を暖めないと。
 かくして、奇妙な居候との生活≪非日常≫が始まった。



1日目

 コンクリートと水のコンサートは終わりそうにない。強まったり弱まったり、ホワイトノイズという名の無秩序な秩序が延々と繰り返される。
 私はといえば湯船に浸かり、自炊できるくらいの気力と落ち着きを取り戻した。幽霊のほうは私がお風呂に入る前と同じ位置で本を読んでいて、変わったところといえば首の傾きが大きくなったことくらいだ。本当に何も悪さをしていなくて、逆に驚きすらする。

「なー、この漢字さ、なんて読むんだ?」
 覗き込むとそれは『激怒』だった。メロスは激怒した。その一文を指差していたのだ。
「『げきど』?」
「げきど、激怒。あー聞いたことある気がする。サンキュ」
 ……『邪知暴虐』を差そうとして指がずれたのであってほしかった。
「あんた、それ読めないのは日本語話者としてまずいわよ……」
「いやぁ、字面的にめっちゃ怒ってそうなのはわかるんだぜ? とりあえず『げきおこ』として先進めたんだよ」
「げきおこ」
「うん。専門用語は英語以外読めんから」
「激怒は一般名詞よ」
「細けーこたぁいいんだよ。で、一応全部読んだんだけどさ」
「うん」
「メロス、アホじゃね?」
 その口から出るとは思わなかった言葉に、一瞬脳が活動を拒否する。
「……あんたにだけは言われたくないでしょうね」
「まあ聞けって。実質ひとりの反政府勢力とか分が悪すぎんだろ。しかも知識とか後ろ楯とかマジで何もないんだぜ? 戦闘力はあったかもしんねーけどさぁ、それだけじゃ付いてきた仲間に見捨てられるのがオチじゃねーか」
「確かに項羽なんかはその感じがあるけど」
「誰か知らんが多分そうなんだろうな。で、やっぱここはまず王様の目が行き届かない辺境で仲間を集めて――」
 あ、これ止まらないやつだ。
「ストップ、ストップ!」
「なんだよ」
「そろそろ、ご飯が炊けるから」
 タイミングよく、炊飯器のブザーが鳴った。

「やまないね、雨」
 あつあつのドリアをつつきながら、なんとなく幽霊男に話しかける。ものを食べられなくて拗ねた様子だけれど、話しかけたら律儀にこっちを向くあたり、出来た人間、いや幽霊だ。
「明日は晴れてくれるかしら」
「天気予報見ろよ」
「……盲点だったわ」
 テレビを付けると、ちょうど定時のニュースが始まったところだった。代わり映えしないトップニュースが並ぶ。どこかで人が死んだらしい。すぐそこに死人がいるのというのに遠くのことのように感じるのは、きっと私が悪いのだろう。
「夕方に死んだらさぁ、即日で通夜になるんかね」
「いくら葬儀屋≪プロ≫でも、午後に亡くなったら厳しいんじゃない? 次の日にお通夜で、その次の日にちゃんと火葬したりするとか」
「棺囲って踊るやつは?」
「なにそれ知らない。アフリカかどっかの風習?」
「んー。ま、そんなとこ」
 煮え切らない返事にもやもやしていると、画面は天気予報のコーナーに切り替わっていた。週間予報は明日から雨・雨・雨・雨・雨・雨・雨。画面、バグってない?
「この先ずっと雨かよ……」
「あくまでも予報だから。ちょっとでも晴れたら出てってよ」
「わーかってるって。あ、皿洗っとくよ」
「本当? ありがとう」
「居候させてもらってる身だから、それくらいはな。それに、女子にはナイトルーティーンとやらがあるんだろ?」
 ナイトルーティーン、ねぇ……。
「私は特にないけど、早く寝たいから助かるわ」
「無いのかよ」
 まあいいけどさ、とか言いながら、幽霊は皿とスポンジを器用に操って洗い物を片付けていく。なかなかに便利な能力だ。
「歯ぁ磨いとけよ」
「はぁい」
 お母さんみたいだと思ったけれど、経験上こういうのには口答えしないほうが賢明だと知っているから、大人しく従っておく。爽やかなミントのフレーバー。そこからふと意識を戻すと、食器が濯がれているであろう水音が聞こえてくる。男のことだから、鼻歌だって歌っていそうだ。
 口を濯いで部屋に戻れば、水切りかごにはピカピカの皿が並んでいた。
「手際いいのね。意外」
「ん? まー慣れてっし。一人ぶんじゃん」
「それはそうだけど。自炊派だったの?」
「んー、自炊派っつーか当番っつーか。デカい鍋でスープとか作ってた」
「へぇ、私より料理できそう」
「いやぁ、そんないい料理は……量産できるの以外は作れねーって。それか、鶏捌いたり」
「鶏捌いたり……?」
 あんた何者なの? と尋ねようと口を開いたけれど、男に先手を取られてしまった。
「早く寝たいんだろ。さ、寝た寝た」
「露骨に話逸らしたわね」
「いやぁ、んなつもりないんだけどな」
 そう言って男は目を泳がせる。嘘が下手な幽霊だ。
「……ベッドに近付いたら殴るから。あんたはソファ使いなよ」
「ん? ああ。気にしなくていいのに」
「私が気にするの。物理的に殴れやしなくたって」
「そっちかよ。心配しなくたって変な真似しねぇって」
「それを決めるのは私なの。もう電気消すわよ」
「へーへー」

 フッと室内が暗くなる。布団の中で丸くなって、長い長い半日を振り返る。そこに普段のような思考が介在する余地などなかった。
「おやすみ」
 いつもはない優しい声が遠くに聞こえる。返事をしようと口をぱくぱくさせて――声になっていたかはわからないけれど――あたたかな気持ちに包まれて、私は微睡みに落ちた。

 ……そういえば、名前を訊くのを忘れてた。




2日目

「朝だぞ、おっきろー」
 憂鬱な朝、じめじめとした雨の日の朝。もう少し眠っていたいというのに、場違いに明るい声に意識を引き上げられた。
「んん、何よ……」
「だーかーら、朝だって。七時。健康的な時刻」
「朝……」
 しぱしぱする目を擦り、昨日の記憶を取り戻し、幽霊の居場所を確認する。ここまでじっくり三秒。そして拳を握りこんで、男の腹あたりに叩き込んでみる。当然手応えはないけれど、満足。
「あにすんだよ!?」
「あにすんだよ、じゃないわよ。ベッドに近付いたら殴るって言ったでしょ?」
「べっつに枕元に立つくらいいーだろ! 布団に入るとかじゃねーんだし」
「それを決めるのも私って言った。手の届く範囲なんて、何されるかわらないでしょ」
「俺に関しちゃその縛り意味ねーし……。つーか、お前が微動だにしないのも悪いし」
 寝相はいいほうだけれど、心配されるようなものかしら。いや、それより。
「微動だにしない、は知ってるのね」
「さっき読んだからな。初期微動継続時間の微動、と一緒だろ?」
「あんた、理科得意だったでしょ」
「そりゃあ、国語よりかは。でも、意外と面白いのな、読書」
 ソファの足元を見れば、文庫本が数冊積まれていた。春と修羅、よだかの星、銀河鉄道の夜、ほか数冊。
「宮沢賢治?」
「誰だそれ」
「あんたが読んでた本の作者。好きなのかと思ったんけど」
「いんにゃ、一番上の端っこから順番に取ってただけ。でもまあ、キレーで好きだぜ。いまいち理解しきれんけど」
「そうね。私も、たまに読むぶんには好きよ」
「愛読書とかじゃねーのかよ」
「だって、綺麗すぎるもの。宮沢賢治の作品で普段から手に取るのなら……注文の多い料理店くらいが丁度いいかな」
「ちゅーもんの……犬がくるくる回って泡吹くやつ?」
「そう。『当軒は注文の多い料理店ですからどうかそこはご承知ください』ってやつ」
「『大へん結構にできました。さあさあおなかにおはいりください』……あ、劇やったな。助けに来てくれる犬の役だった」
「あんた、妙に物覚えがいいのね……」
 そして「あと、」と続けて。
「出した本は元のところに片付けて。溜めてから戻すの、面倒なんだから」
「すっげーガンチクある言葉」
 枕元に本を積み上げた挙句、就寝中に紙で溺れかけた経験があるのだから、それはその通りだ。台に乗らなければ届かない高さの本棚にも、ちょっと本を浮かせて綺麗に整頓させられるこの能力、少し、いやかなり羨ましい。当時の私にこの力があれば、どんなに筋肉痛が軽減されたことだろうか……。
「な、朝メシは?」
 たらればの話に思いを巡らせていたのを、現実性のない男が現実に引き戻してくる。途端、忌々しくも生きていることを主張するように、胃が痛みにも似た空腹を訴え始める。
「何か、洋食がいいな……」
「んー、オムライスとか? 朝からは重いか」
「オムライス……ちょっと重いけど食べたい。もう少し待ってブランチってことに……」
「だーめ、量は少なくていいから三食しっかり食べなさい。オムレツとサラダ的なやつと――オムライスが諦めきれないならケチャップご飯にでもするんだな」
「え、すっごいまともな献立じゃない。ちなみに私、オムレツは作れないんだけど」
「……俺も無理」
 今日の朝食は温野菜サラダとご飯、スクランブルエッグにケチャップで下手くそな猫のイラスト。土砂降りの雨音と、食事を羨む幽霊を添えて。

「暇ね」
「暇だな」
 ソファに腰かけて虚空の分析をしている私と、ラグに寝そべって足をばたつかせている幽霊。夏休みの長い大学生とはいえ、バイトのない完全な休日に身動きが取れないというのは、なんだかとても損した気分になる。
「課題とか出てんじゃねぇの?」
「大学生には夏休みの課題なんてないのよ」
 幾重にも重なるレポートの締め切りを乗り越えてきたところなのだ、雨さえなければ史跡巡りなり古書店巡りなり、趣味に没頭していたかったというのに。
「大学生かー、俺の知らない文化圏だな」
「そういやあんた、何してた人なの?」
 口をついて出た言葉に気付き、しまった、と思う。何となく、今知っていること以上は踏み込むべきではない気がしたのだ。
「ん? 出動しないほうがいいタイプのヒーロー」
 気がしただけかもしれない。
「親父が警察してんだけどさ、大学行けってしつけーから半分家出みたいにして夢叶えた。たま~に帰省してたけど」
「夢って?」
「正義のヒーロー。尊敬する人物はウルトラマン」
 輝かしいドヤ顔に、意地の悪いことを言ってしまいたくなる。
「ウルトラマンって宇宙人じゃない?」
「宇宙の人だからいーんだよ。んで? お前は大学で何してるんだ?」
「私は……日本の古典文学について勉強してる。あんたが知ってそうなところで言うと、竹取物語とか、百人一首とか」
「直感でしか読めないやつな。あ、でも百人一首で語感が好きなやつあるわ。意味は全くわからんけど」
「どれ? 私が知ってる範囲内でなら教えられるわよ」
「せをはやみ いわにせかるるたきがわの、ってやつなんだけど」
 なんて歌を好んでいるんだ。
「われても末に逢はむとぞ思ふ、ね。ド直球に恋の歌で……離れ離れになってもきっと再会しましょう、っていうのを川の流れに重ねた歌」
「なんちゅーもんを好きでいたんだ俺は」
「背景を知ったらまた印象が変わるわよ。それに、古典文学にはもっと凄い作品も色々あるから」
 源氏物語とか。伊勢物語とか。和泉式部日記とか。きょとんとした顔をする幽霊には教えないけれど。
「日本史の授業、聞く?」
「興味あるけどぜってー心折れる。し、授業に出てくるイッパンメーシがわからんと思うから――」
 男は顔を上げて、少し勿体をつけた。
「辞書持ってねえ? あとお前は昼飯。ラーメンとかいいと思うぜ」
「……あんた、自分が食べられないからって太らせようとしてない?」

 辞書を読む男ひとり。夕食の献立に悩む女子大生もひとり。窓の外は一日中薄暗かったけれど、それでも判別のつく夕暮れの足音。
「唐揚げとかどうよ」
 ひとまず与えた数版前の大辞林から目線も逸らさず、男が話しかけてくる。
「それか、チキン南蛮」
「太るから却下。ラーメン食べちゃったんだから」
「手羽先」
「却下」
「蒸し鶏」
「却……採用」
「タレは?」
「ネギ?」
「うまそ。……飯テロするんじゃなかった」
「自業自得よ。生き返ったら作ったげる」
「クソ、この世の理に抗えってのかよ」
「あーん、くらいはしてあげてもいいいわよ?」
「誰がされてやるかばーか!」
 じたばたしてもうるさくないのは幽霊の利点だ。
「成仏できなかったらお前のせいだかんな!」
 ……いや、やっぱりうるさい。

 部屋の明かりが消える。他人の気配にも慣れた。控えめに頁を繰る音が思考を溶かしてしまう。
「起きてるか?」
「……ん。何」
「好きな和歌、教えて」
「藤原定家の……忘るなよ、の歌」
「そ。サンキュ、おやすみ」
 優しい声が、緊張の糸を解いた。




3日目

「おはよ」
「……おはよう」
 朝起きてすぐ、幽霊の顔を見るより早く、私はソファの元の本たちに視線を奪われた。一晩のうちに随分とうず高く積まれたものだ。
「これ、全部読んだの?」
「いや、目ぼしい部分だけ流し読み」
「何を探してるのか教えてくれたら、資料出してくるわよ」
「いいよ、そんな手間かけさせるほどでもないし」
 男はかぶりを振って、窓の外に視線をやった。
「それに、雨、止みそうだしさ」
 白んだ空には厚い雲がかかっている。厚い雲しか、かかっていない。

 ベランダに出れば、小雨から外れた霧粒が、私の顔をほんの少し濡らした。
 幽霊は水に濡れるのを厭わず、びちゃびちゃの手すりに体を預けるポーズをした。私はその少し後ろで、所在なく立ち尽くすことしかできなかった。
「水場にはユーレイが集まるって言うじゃんか」
 おもむろに男が口を開く。
「言うわね」
 だから私も、口を開いた。
「俺、ユーレイ怖くって」
「あんたも幽霊じゃないの」
「うん。けっこービビッてる」
 雲の裂け目、青空のなか、白色の月が姿を見せた。
「じゃ、バイバイ」
「うん。……バイバイ」
 陽の光が笑顔を照らし、掻き消える。
 文字通りの今生の別れは酷く子供じみていて、酷くあっさりとしたものだった。

 小雨がまた、降り始める。
 整頓された本棚。使ってたやつに質量がないから乱れてもいないソファ。洗われるのを待つ食器。まるで全てが夢だったみたいだ。
 あれは退屈した私の理想。そう自分に言い聞かせても、淡く色付き始めた世界のなか、交わす相手のない言葉が溶けていくのを、止められはしなかった。
「おやすみ」
 名前すら、訊けやしなかったのに。





 いつも通りの時刻に目を覚まし、代わり映えのない日中を過ごし、そうして夜、布団の中で考え込む。これを日常と呼ぶのなら目を覚ましたくなどないと思う、それすらも日常に組み込まれているのだから質が悪い。
 他人の命よりも明日の天気のほうが重要だった。新聞記事の片隅に、犠牲者として名を連ねることができたのならどれほど幸福なことかと思った。退屈な日々を退屈であると感じることに嫌気がさした。
 とくとくと流れる血潮を疎ましく思った。自死する勇気などひとひらも持ち合わせていない自分を呪った。文学に感動を覚えられないことが酷く苦しかった。
 だから、やはり、私は死に続けるのだ。灰色の世界で、全てを憎んで。




 正義のヒーローになりたかった。零れ落ちる命のほんの少しだっていいから、救い上げられたらと思っていた。丈夫な体以外の何も持ってはいないけれど、丈夫な体さえあればきっと役に立てるはずだと、そう信じていた。
 内紛とテロリズムに支配された国のとある街。街の人々の身の安全を守るのが俺たちの役目で、心を守るのが笑顔の役目。歌い、踊り、笑わなければ、いつやって来るとも知れない死の恐怖に立ち向かえなどしないのだと、自ら体験するまでは思ってもみなかった。
「お兄ちゃん、おはよう!」
 一人の少年が駆けてくる。休日に面倒を見ている子供のひとりだ。
「おはよう、ナディム。一人で来るなんて珍しいな」 
「お兄ちゃん、今日は孤児院《うち》に来る?」
「おう、そのつもりだぜ」
「そ、それならさ。市場まで……付いてきてくれない?」
 市場。少し考えてから、一つの答えに辿り着く。
「八百屋さんのとこの犬か?」
「そう。お使いを頼まれたのはいいけど、やっぱり怖くって」
「ちっちゃい割にはけっこう吠える子だもんなぁ。んじゃあ、一緒に行くか」
「うん!」
 小さな歩幅に合わせてゆっくり歩く、この時間がわりあいに好きだ。大人の5分を10分かけて辿り、角を曲がって八百屋のある通りまでやって来たその時、キャンキャンとけたたましい声が響く。
「大丈夫、俺たちに吠えてるんじゃないよ」
 歩を止めたナディムを励ますために、直感的に言った言葉。数秒遅れてその意味を理解する。
 この犬は、俺たちの後ろにいる人物に対して吠え立てているのだと。背筋が凍る。半ば無意識にナディムを抱きしめ、地面へと転がる。何か大きな存在に突き飛ばされるような衝撃と訳のわからない轟音。その僅か零コンマ一秒早くに捉えたのは、ベストを着込んだ男の姿だった。
 やられた。考えうる限り最悪の巻き込まれ方をした。子供に傷を残す存在が、ヒーローであっていいわけがない。
 どくどくと流れ出す血液が恨めしい。火の手が上がっているらしいが感覚器がろくに機能しない。ナディムを抱きすくめてあやすことさえできやしない。
 けれど、俺は、生き続けなければならないのだ。せめてこの炎が消えるまで、鮮やかな透明のなか、ひとを守るために。




エピローグ あるいは帰還

 小さく音を立てて扉を開ける。一歩でも中に入れば、そこはもう一人暮らしの我が家。
 居候の幽霊が成仏してから(してるわよね?)、早いもので一週間が経った。色づき始めた世界の眩しさをくすぐったく感じて、けれどきっと元通りになるのだろうと、諦めにも似た考えが水を差してくる。

「ただいま~」
 誰もいない部屋に呼びかけるのは、単なる不審者除けのおまじない。
「おー、おかえり」
 ……くつろいでいる、不審者。
「なんで居るのよ!?」
「いやあ、AI閻魔の待機列に並んでたら」
 AI閻魔って何?
「なんか白い爺さんに呼ばれてさ。あの子のことが心配だから見守っててくれ……って。なんか心当たりある?」
「何もない……」
「だよなー。多分あっちの私情だわ。俺はメシ食えるようになったからいいんだけど」
「メシ食えるようにって……」
「透けてないだろ?」
 その場で一回りしてみせる幽霊? の身体は、たしかにどの角度から見ても透けているようには見えなかった。
「ほんとだ。じゃあ、私が触れるようにも……?」
「ほい、握手」
 平然と差し出される右手を握ってみる。思っていたよりも大きくて冷たい手だ。冷え性の私が冷たいと思うのだから、体温がないと言ったほうが適切なのかもしれない。
「んーで、こうしたら前と同じ」
 握手したままぐっと握りこまれた手は私をすり抜けて、3Dゲームの座標バグみたいな見た目になった。
「うわ。透けてないのにすり抜けられると変な感じ。便利そうだけど」
「便利そうだよなー。メシも食わなくても支障はないらしいし、ピンチの時は控えるわ」
「その言い方、あんたの食い扶持まで見なきゃなんないの?」
「一口二口でいいからさ。食ってるところ見てるだけってキツいんだよ」
「……仕方ないわね」
 そう答えると、男はとても嬉しそうな顔をした。ま、仏飯みたいなものだと思っておこう。
「でさ、生き返ったら蒸し鶏作ってくれるって言ってたよな?」
 この幽霊の記憶力のよさは知っているけれど、これに関しては食い意地が張っているだけのような気がする。
「あんたのソレは生き返ったって言えるのかしら」
「言える。食事するなら生きてる。だから蒸し鶏」
 透けていないせいか、圧がすごい。これは折れてあげないとだめかな。
「わかった。わかったわよ。作ったげるから、手伝って」
「うっし、了解。何すればいい?」
「えーっと、まずは……」
 そこでふと、大切なことに思い至った。

「自己紹介、しましょ?」


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