創作。 新作は年2ペースです。
久々の新作です。
大学の文芸部でお出しした1作目は夏ミカンを手直ししたものだったので、今回は気持ち悪いの。
1971字。続きを読むからどうぞ。
そも、聖母子像というのは聖母マリアが幼児期のキリストを抱いた像であるからして、教会にあるのはまったくもって不可思議なことではない。けれどこの町の教会にある聖母子像は、いつまで経っても
こういった真白な像といえば素材は大理石と目されるが、それにしたって数十年もの間、くすみ汚れ傷欠け埃ひとつなく柔和な笑みを湛え続けているのは、ルーヴル美術館のダビデ像ならまだしも、この小さな教会にあっては些か手入れが行き届きすぎているというものであろう。血色のない肌とは対照的に、生きているかのような柔らかい微笑みとまろみのある輪郭線は、教会に通わなくなってもう二十年は経った今でも鮮明に思い出されるのである。
かれはやや大柄で、男か女か老人か若人かの判別のつかない、髪も肌も真白な人物であった。
記憶にある限り、私が小学校低学年の時分には今と同じ姿で立っていて、当時から人魚の肉を食べて不老不死になったのだとか、人肉を食べているのだとか、子供たちの間では不吉な噂がまことしやかに囁かれていた。
ちょうどその頃、町外れに出向いた人間がひとり、行方を眩ますなんて事件があったものだから、そんな出鱈目が出来上がったのだろう。
人魚肉にしたって、町に残る伝説を信じるのなら、我々の先祖もそれを食べたはずなのだ。人魚の肉を食べると不老不死になる。そしてその者の心臓は肉体を離れても動き続ける。人魚は骨と内臓を海に還せば身体が再生するから、先祖たちは飢饉の度に救われた。けれど現実、先祖たちは今生きていないのだから、不老不死なんてものも真っ赤な嘘なのである。
とかく、そんな噂が流れていたものだから教会に近寄るものは少なかったし、子供たちは親や教師から、町外れには行くなと言い含められた。しかし人間、行くなと言われれば行きたくなるのが
小学校も高学年になった私は聖母子像をいたく気に入っていて、しばしばじっと見つめたり周囲をぐるぐる回ったりして放課後の何時間かを過ごすこともあった。かれが秘密ですよと笑って、一般には公開していない奥の部屋を見せてくれたのは、何度目かの「きれいだなぁ」の後であった。
部屋には表に出ているのと同様に真白な像が十数体は並んであり、その中にいくつか
――もう十年もすれば、黒いものの方が作りやすくなりますかねえ。かれはそう言って像を撫ぜた。私も触ってみようとしたが、美しいものへの畏怖か、母親の背丈ほどもある像の威圧感からか、なんとなく触ってはいけないように感ぜられて、結局触れることのできないまま、卒業と共に教会への足も遠のいてしまった。
しかしながら、こうも回想に耽っていると、そこに還りたくなるものだ。かつて歩いた――今はもう滅多に通らない――道を遡ってゆけば、記憶よりも更に小さな教会に辿り着く。懐かしさにひとしきり浸り、いつも通り開いてある戸から中に入った。聖母子像はあの時と変わらぬ微笑で私を出迎えてくれる。
かれは不在のようで、私と像はしばらく見つめ合った。
そして私は、不意に像に触れた。
かたくつめたいはずの像は、ぐにと柔らかく、そして、たしかに、脈動していた。
あたたかかった。
ハッとして手を離し、それからまた
ようく観察すれば幼いイエスの首筋にはあるはずのない鱗が彫られていて、耳の付け根には魚の
――そもそも、かれが信仰を捧げる姿を見たことがあっただろうか。
錆びた鉄のようなすえた臭いがした。
町の外れの教会に、聖母子像というのがある。幼児期のキリストを抱く聖母マリアは真白な素材で、亡骸を抱く聖母マリアは真黒な素材でできている。
「こちらの像ですか。こちらの方はつい最近完成しまして。美しいでしょう」
かれはそう言って亡骸を撫ぜた。
しろく、きれいな指先だった。
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